「はぁ。はぁ」
何とか詩穂さんのおかげでビルの中の事務所の一室に逃げ切れた。
ビルから大分水は引いたけど、床の水は多少残っている。そのせいで、靴がビショビショに濡れてしまった。
冷たいとか気持ち悪いとか言っている場合じゃないんだろうけど、でも、履き替えたい。気持ち悪い。
詩穂さんのスマホを何とか受け取ったけど、いくら防水機能があったとしても、この水に浸かってしまったら、しばらくは使えないだろうな。
あの正義気取りの警察官が。あんな奴に。詩穂さんは。でも、あいつはまだ生きている。何とか見つからない様に、このビルから逃げ出さないと。
廊下を走る音がだんだんと近づいてくる。水が捌けていないせいか、ビチャビチャと汚い音が耳に届く。
息を潜め、デスクの陰に隠れた。
あいつが来たのか、それとも他の誰かが来たのか。今、ここからは確認が出来ない。
「誰かいないのか!?」
口早に男が叫んだ。その声質から焦りが見てとれた。しかし、私も突然の声に身体がビクッと反応してしまった。
馬鹿。そんな大声出したら見つかっちゃうじゃない。
足音から男が私のいる部屋に入ってくるのがわかった。歩く度に足音がビチャビチャ鳴っている。
私は見つからない様に、男がいる方とは逆の方向にゆっくり移動した。
両手と膝を冷たい水の中に入れ、進んだ。手を、膝を出すたびにヒヤッとくる。声が漏れそうだった。
「誰もいないのか?」
だからさ~。馬鹿なわけ? 見つかっちゃうっていうのに! だんだん男の行動にムカついてきた。
「ヒャッ!」
咄嗟に口を押えた。デスクとデスクの間を右に曲がろうとしたとき、目の前に女性が横たわっていた。
どうやらもう、息をしていなかった。津波から逃げ遅れたようだった。
「誰かいるのか?」
男が私の方に近づいてくる。私はゆっくり立ち上がった。
「ちょっとさー。さっきから五月蠅いんだけど」
私は男を睨みつけた。どうやらあの警察官ではなかった。
男は驚いてたじろいでいた。
「ご、ごめん。悪気はないんだ」
男は両手を胸の前に突き出して、手を振った。
大学生くらいだろうか。恐らく私よりは歳が上のような気がする。
「あの警官から逃げてきたんだ。恐らく俺以外はみんなやられた。何なんだよあいつ」
男はデスクに両手をついた。男の両手が震えているのが見えた。
「神の声が聞こえた? 俺がお前らを神の国に連れて行ってやる? どうかしてるよ全く」
男はそう言って、そのまましゃがみ込んだ。
「ちょっと。声が大きいって」
私は男に少しずつ近づいた。男が立ち上がった。
「ごめん。そのまま動かないで」
男が近寄って来そうだったので、牽制した。
「あ、ごめん」
男は鼻を擦った。
「ごめん。私は早くここから出たいのだけど、あなたはどうする?」
男は少し考えた後、口を開いた。
「俺もここから一刻も早く脱出したい。死体もゴロゴロ転がっているし、あいつには殺されたくはないからな」
男が一歩近づいてきたので、一歩後ずさった。
「ここ何階かわかる?」
「5階だったと思うけど」
男は答えた。5階か。無我夢中で駆け下りてきたから、気づかなかった。
突然バラララララ。とサブマシンガンのような銃声が聞こえてきた。私の鼓動が早くなっていくのがわかった。それと同時に背筋が凍り付くようにゾワッとした。
大分近くまで来ている。
「早くここから逃げなきゃ」
「うん。そうしよう」
男は言った。私は、事務所のドアを開けて、廊下へ抜けた。男も私の後ろをついてきた。左右を見渡したが、誰もいなかった。
「今のうちに下に降りよう」
私は後ろの男に向かって言った。
「ああ」
とだけ返事が返ってきた。なるべき足音を立てない様に気をつけて歩くが、誰もいないせいか、どうしても足音が響き渡ってしまう。
廊下の端にある非常階段までの道のりが、異様に長く感じる。エレベーターフロアの横を通り過ぎたが、やはり、電力は通っていないようだった。
タンッ! タンッ! と背後から軽快なリズムが聞こえてきた。
「おいおい。こっちに来たんじゃねーのか?」
男が小声で話してきた。
「早く行きましょう」
私が後ろを振り向くと、遠くに、銃を構える男が立っているのが見えた。
「伏せて!」
私は、男の右手を思い切り引っ張った。男は突然の事にバランスを崩して、前のめりに倒れた。
そして、その瞬間、バラララララという銃声が響いたと同時に、遠くの壁に穴が空く音が聞こえた。
「ま、まじかよ」
男の声が震えている。
「おい、お前大丈夫か!?」
男の手を触ったからか、何なのかわからなかったけど、全身に電気が流れたような感覚が襲った。あの時の記憶が……。
「あ、あの時、私は……」
「おい、しっかりしろ!」
男の声が小さく聞こえる。ああ。そうだ。私はあの時。ああ。思い出した。そうだ。この人も。あいつも。
また、バラララララと弾丸が駆け抜け、壁に大量の穴を空けた。
「あ、あなたはあの時の……」
男が私の顔を見て、首を傾げた。
「お前、こんな時に何を言っているんだ?」
遠くでマガジンを捨てる音が聞こえた。
「早く行くぞ!」
そう言うと、私の手を引っ張って、走り抜けた。
「ちょっと待って」
私は男の手を振りほどいた。
「あ、ごめん」
私は首を振った。
「う、ううん。ちょっと痛かったから」
「あ、ああ」
男はそう言うと、階段を一段飛ばしで降りて行った。廊下からはマシンガンをぶっ放す音が聞こえてきた。
「私、思い出したの」
「何をだよ?」
男は振り向きはしなかった。階段を駆け下りている。私も続いた。
「一度あなたに助けてもらっている」
「何を馬鹿な事を。俺は今日お前に初めて会ったんだぞ」
「うん。それはわかってる」
男は止まった。
「お前大丈夫か?」
私の顔を見ると、また、階段を降り始めた。
今、ここで話しをしても理解してもらえない。私が同じ日をループしているなんて。とても言えない。
「おい。こっちだ!」
男が手を振り上げて、合図をする。私は、男の背中を追いかけた。
エントランスが見えてきた。ようやく外に出られる。
「ここから出れるぞ」
男はそう言って、エントランスの自動扉を強引に開けた。
私は男が開けてくれた、扉の間を通って、外に出た。男も外に出てきた。そして、扉を閉めた。
「ありがとう」
男は首を傾げた。
「お前変わったな? 俺に惚れたか?」
私の顔が熱くなるのが感じた。と同時に、振り上げた右手を途中で止めた。
「ごめん。別にそう言うのじゃないから」
私は男を置いて、歩いた。
「おい。悪かったよ」
男は小走りに後をついてきた。
「あ、あの時は……」
私が男に話しかけたとき、聞きなれた、着信音が鳴った。
「お。なんだ。誰だ?」
男は慣れない手つきで、スマホを操作している。スマホを耳に当てた。
「お前誰だ?」
男が私を見た。
「ああ。お前。彼氏か」
男はしかめっ面で、右手を左右に振った。どうやら、話が通じていないようだ。
「葵? 知らないな」
今、葵って言った? それ私じゃない? 私は男に私じゃないの? とジェスチャーした。男は首を傾げた。
「ちょっと待て。お前は何か誤解をしている」
男は頬を掻いている。
「偶然拾ったんだ。ちょうど俺の携帯も壊れちまって」
男は髪の毛を掻きむしっている。
「いや、いなかった」
え? ここにいるんじゃ?
「ここももう終わりだ。まるで地獄のようだ」
「私があお……」
私の声を遮る様に自動扉がマシンガンによって破壊された。
「あっ! まただ。すまん電話を切るぞ!」
男はズボンのポケットにスマホを閉まった。それ、私のじゃ……。でも、そんな事を言わせてくれる時間さえ与えてくれなかった。
「俺があいつを引き付ける。だから、お前は逃げろ」
「でも」
「いいから行け!」
そう言うと、男は私とは逆方向に走って行った。
「後で連絡するから!」
男の返事はなかったが、多分聞こえてるはず。私は、新宿駅南口の改札へ向けて走った。
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