「おい。何か聞こえないか?」
景は辺りを見渡している。
「おいっ! 透哉! あれを見ろ!」
景は東の方角を指した。俺はその指さす方へ視線をやった。
「あ、あれって!?」
「やばい。まじやばいぞ! 透哉走れ! 津波に飲まれるぞ!」
景はそう言うと、津波を背に走った。俺も景に後れを取らない様に懸命に走った。
なんなんだあの津波は。葵は大丈夫なのか? 詩穂さんはどうしてるんだ。やばいやばい。あと少しで都庁なのに。
「おいおい。バカかよ! なんだよこれ!」
前を走っていた景が立ち止まった。俺は視線を上に上げた。無我夢中で走っていた為、それに気づかなかった。炎が空に向かって渦巻いて移動している。
「燃えている! これって!?」
透哉は辺りを見渡した。 火災旋風ならこれかな?
「火災旋風だ! 西口が火災旋風で燃えているんだ!」
景は火災旋風を眺めている。
「景さん! これ使ってください!」
俺は色々な事象を想定し、色んなモノをリュックに詰め込んでおいた。
俺はガスマスクを景に投げた。景は一瞬驚いていたが、それを受け取ると、少し口角を上げて見せた。
「ナイスだ。だてに何度も死んでないな。おまえ」
「いや、まぁ」
景は俺の肩をポンと叩いた。
「いいか。火災旋風の動きをよく見るんだ。一つは、あれの動きとは垂直方向に逃げること。北東の方に向かっている。ちょうど俺たちとは真逆の方向に向かっている」
「はい」
「そして、もう一つが、ガスだ。どうしようもないと思っていた、ガス対策だったんだがな、透哉。お前が都合よく持っていたからな。ナイスだ。これで特に問題なく突破できる。後は、熱と上空からの散乱物に注意すれば大丈夫だ」
景は後ろを見た。
「津波も迫ってきている。火災旋風の暑さでこのまま甲州街道を通り過ぎるのは危険だ。わかるな?」
「はい」
「と言う訳だから多少遠回りしていく」
景は俺の肩をもう一度ポンと叩くと、走り出した。そして、振り向いて言った。
「いいか。全力で追って来い! 早くしないと飲み込まれるぞ!」
津波も大分迫ってきているのが見えた。恐らくここら辺一帯に到達するのも後十分もかからないだろう。しかし、何メートルあるのだろうか。いや何メートルでは到底収まりそうな大きさじゃない。
俺たちは代々木方面へ向かい、新宿マインズタワーを回る様に裏手を走った。この一帯は、ビルや家屋は倒壊していたが、火災は発生していなかった。そのまま、文化学園大学を目指した。
大学に向かっている途中の路地裏にあるアパートの前を通り過ぎようとした時、女の子の泣く声が聞こえた。
「今、女の子の声が」
俺は足を止めて辺りを見渡した。女の子の姿は見当たらなかった。
「おい! 助けるつもりか?」
景は立ち止まって、俺を見た。
「いや……」
やっぱり、また女の子の声が聞こえた。おそらくあのアパートの2、3階辺りだ。
「景さんごめん! やっぱり無理だ」
俺はそう言うと、アパートの階段を駆け上った。
「馬鹿野郎! 死にたいのか!」
そう言いながら、景が追いかけてくるのがわかった。
「いた!」
3階の渡り廊下の所でしゃがみ込んで泣いている。俺は近づいて、膝をついて、女の子の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
女の子はビクッと後ずさった。そうか、ガスマスクをしたままだった。俺はガスマスクを外した。
どうやら、妹よりは幼そうだ。
「早くここから逃げないと」
女の子は首を振る。
「お、お母さんが」
女の子はそう言って、玄関の前を指さした。玄関の方を見ると、玄関のドアは地震のせいで、歪んでいて、どうしても開きそうになかった。部屋の中からも、人の声は聞こえない。
「おい! 馬鹿! 早く逃げるぞ!」
「でも、中に人が!」
「馬鹿野郎! もう無理だ。無理。諦めろ! 早く行くぞ!」
「でも、この子が……」
女の子は再び泣き始めた。
「ここら一帯、人の気配がしない。死んだか、逃げたかだ」
景はガスマスクを外し、女の子に近づき頭をやさしく撫でた。
「死んだら。透哉。お前のせいだからな」
景はそう言うと、女の子を無理やり抱きかかえ、走った。
「お前がもたもたしているせいで、あんなに近くに着やがったじゃねーか」
景は厭味ったらしく言い放った。
「だって……」
「……わかってるよ! でもな。いや、今はそれどころじゃない。このままじゃ3人とも死んじまう。急ぐぞ!」
景は女の子を抱えていたが、走るスピードが変わることはなかった。大学を超えて、甲州街道を渡り、新宿中央公園に着いた。
公園には、この辺りに住んでいた人や会社員、遊びに来ていた人たちが沢山集まっていた。
「女の子はここに置いていきますか?」
「お前。この子を殺す気か?」
「いや、そう言う訳じゃ」
「いいか、お前がこの子を助けたんだから、責任を取らなくちゃいけない」
「わかりましたよ」
「あいつらは、津波に気付いていない。ここに留まっているという事が、そういう事だ。どうせ皆死ぬ。いいか、絶対に声をかけるなよ。都庁がごった返す」
「わかりました」
公園には入らず、公園通りから、ふれあい通りを通り、東京都庁第一本庁舎へ向かった。
都の要である都庁は、耐震構造がしっかりしているのか、あれだけの地震にも耐えているように見えた。
非常用発電設備に切り替わったのか、エントランスのオートドアも動いていたし、室内の照明も点いていた。
エントランスには、避難してきていた人がごった返していた。
「エレベーターは使えない。非常階段はどこだ?」
景は辺りをキョロキョロ見渡した。
「あっちじゃないですか?」
俺は奥の方を指さした。
「行ってみよう」
景は俺が指さした方へ走り出した。
「お、お母さんは?」
女の子が言った。
「お母さんは後で迎えに行こうな」
景は優しい口調で女の子に言った。女の子は黙って頷いた。
「その扉開けてくれ」
景は扉に向かって顎でクイッとやって見せた。
「わかりました」
扉を開けて入った。目の前に階段がある。
「開けたら、扉をきちんとしめてくれ。それで、水の侵入を少しでも抑えられるはずだ。まぁ誤差みたいなもんだと思うがな」
景が入ったので、扉を閉めた。
「もう時間がない。とりあえず、登れるところまで登るんだ」
景はそう言うと、階段を上り始めた。
「最初は歩いて行く」
景の声が反響する。
「なんでですか?」
俺はこんなのんびりしていたら、津波に飲み込まれるんじゃないかとハラハラしていた。
「やみくもに駆け上がったら、それこそ大事な時に体力がなくなっちまう」
「なるほど。でも、津波は……」
「わかってるさ。話すのも体力を使うから、これからは無言で行く。津波が来たら、都庁に異変があるからそれが合図だ」
「わかりました」
それからは無言でひたすら上り続けた。女の子も俺たちの空気を察しているのか、一言も話すことはなかった。
10階から11階の間の踊り場を歩いているときに、異変はあった。
都庁が少し、傾むき、揺れ始めた。
「透哉。走るぞ」
「はい!」
「足元気をつけろよ!」
景はそう言うと、階段を駆け上って行った。俺も遅れない様に、走り始めた。
何段駆け上ったのだろう。30階を過ぎた頃までは、平気だった足も、太ももはパンパンに膨れ、歩くのでやっとだった。景はさすがというべきか、女の子一人担いでもまだ余裕の顔をしていた。
一人遅れること、45階の展望室へ着いた。ドアを開けると、空間が広がっており、都庁職員だろうか、人で埋められていて騒がしかった。その中に、景と女の子の姿があった。景は疲れた素振りを見せず、片手を上げてニコッと笑った。それを確認すると、俺は床に倒れた。
誰かが俺の方へ向かってくる足音が聞こえる。
「よう。お疲れさん」
景は床に這いつくばっている俺の肩を叩いた。俺は「なんとか」と、一言絞り出すのが精一杯だった。あの人は化物なんだろうか。今更だが、何かやっていた人なんだろうか。意識が朦朧としてきた。瞼が重い。
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